LOGIN週末。
私は駅前で、不動産屋の担当者と待ち合わせをしていた。
「藤崎さん、お待たせしました」
「いえ」
担当の女性は前回と同じ人だった。
手元のファイルを開きながら、今日回る物件を確認する。
「今日は三件です。一件目が駅から近め、二件目が少し広め、三件目が築年数はありますけど日当たりがいいです」
「お願いします」
「こちらこそ」
私は小さく頭を下げた。
内見。
その言葉だけで、少し緊張する。
まだ引っ越す日も決まっていない。
悠斗と細かい話もしていない。
それでも今日は、自分が暮らすかもしれない場所を見る。
昨日まで想像だったものが、少しずつ現実になる。
◇◇◇◇
一件目は駅から近かった。
新しい建物。
オートロック。
部屋もきれいだった。
「便利ですね」
森下さんが帰ったあとの部屋は、少しだけ違って見えた。 カップを洗って、皿を拭いて、木のトレイを棚に戻す。 テーブルの上には、森下さんが持ってきてくれた焼き菓子の残りが小さな袋に入っている。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花。 その隣のクラゲ。 いつもの景色なのに、そこに誰かの声が残っている気がした。 藤崎さんのお部屋です。 ちゃんと好きなものを置いてる感じ。 自分のことをちゃんと好きにしようとしてる感じ。 森下さんの言葉を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。 私は濡れた手をタオルで拭き、二脚目の椅子を見た。 さっきまで森下さんが座っていた椅子。 千尋が座った時とは、また違う余韻がある。 千尋は笑い声と勢いを置いていった。 森下さんは、部屋の中にある小さなものをひとつずつ見つけてくれた。 同じ椅子なのに、座る人によって残るものが違う。 それが、少し不思議で、少し嬉しかった。◇◇◇◇ 私は焼き菓子の袋を手に取った。 森下さんは「気を遣いすぎない量にしました」と言っていた。 その言葉の通り、小さな詰め合わせだった。 多すぎず、少なすぎず、今日食べきれなくても負担にならないくらい。 私は袋の口を折り直して、棚の上に置いた。 明日の朝、紅茶と一緒に食べよう。 そう思う。 誰かが持ってきてくれたものを、翌日の自分の楽しみにする。 以前の私は、来客のあとに残ったものを「片づけなければいけないもの」として見ていた気がする。 洗い物。 ゴミ。 余った食べ物。 乱れたクッション。 でも今は、それらが全部、誰かが来てくれた証拠のように見えた。 もちろん片づける。 そのままにはしない。 でも、急いで全部を消さなくてもいい。
駅まで送ると言うと、森下さんは少し遠慮した。「大丈夫ですよ。一人で帰れます」「うん。でも、私も少し歩きたいから」 そう言うと、森下さんは嬉しそうに頷いた。「じゃあ、お願いします」 二人で部屋を出る。 鍵をかける前に、私は一度だけ中を振り返った。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 窓辺の花瓶。 クラゲ。 使ったカップと皿は、まだシンクに置いてある。 前なら、誰かを送る前に洗ってしまいたくなったかもしれない。 水に浸けておいて、帰ってから片づければいい。 今はそう思える。 私はドアを閉め、鍵をかけた。
森下さんは、焼き菓子を小さな皿に並べながら言った。「実は、今日来るの少し迷ったんです」「え?」 私は紅茶のポットを置きながら聞き返した。「迷ってたの?」「はい。藤崎さんが誘ってくれたのは嬉しかったんですけど、私、職場の後輩ですし」「うん」「距離感、間違えたら嫌だなって」 森下さんは少し苦笑した。「藤崎さん、優しいから、嫌でも大丈夫って言いそうなので」 痛いところを突かれた。 私は思わず黙ってしまう。 森下さんは慌てたように手を振った。「あ、責めてるわけじゃないです!」「分かってる」「でも、前の藤崎さんなら、私が行きたいって言ったら、
改札前で待っていると、森下さんは大きな紙袋を持って現れた。「藤崎さん!」 私を見つけると、ぱっと表情が明るくなる。 紙袋を抱えたまま、小走りに近づいてきた。「すみません、遅くなりましたか?」「大丈夫。ちょうどいいくらい」「よかったです。緊張して、駅を一回逆方向に出そうになりました」「それは危なかったね」「危なかったです。藤崎さんのお部屋訪問、重大任務なので」 重大任務。 私は思わず笑った。「そんなに構えなくていいよ」「無理です。花瓶監査見習いとして」「本当にその肩書で来たんだ」「佐伯さんにはまだ非公認ですけど」「非公認監査員」
森下さんが来る土曜日、私は朝から少し落ち着かなかった。 待ち合わせは午後二時。 駅まで迎えに行くことになっている。 それまでに、掃除機をかけて、テーブルを拭いて、洗面所を整えて、お茶を用意する。 やることは多くない。 多くしない、と決めた。 それなのに、気づけば棚の上の埃を見つけてしまう。 床に置いた本の角度が気になる。 クッションの位置を直したくなる。 私は丸いテーブルの前で、両手を腰に当てた。「落ち着こう」 誰もいない部屋で言う。 森下さんは、部屋の審査員ではない。 花瓶監査見習いではあるけれど、それは冗談だ。 完璧な部屋を見せたいわけではない。 私はここで暮らしている。
◆ 悠斗は、スマホの画面を伏せた。 真琴から郵便物が届いたのは、昨日のことだった。 封筒には、丁寧な字で自分の名前と住所が書かれていた。 中には、こちらに紛れていた郵便物が一通。 それだけ。 メモはなかった。 余計な言葉もなかった。 必要なものを、必要な距離で送ってくれた。 それが少し寂しくて、でも同時にありがたかった。 悠斗は届いた郵便物を処理し、封筒を捨てられずにテーブルの端に置いていた。 真琴の字。 長く一緒にいたから、見慣れているはずだった。 けれど今は、それがもう自分の日常の中にないものとして目に入る。 悠斗は封筒を裏返した。 差出人の住所は、新しいものだった。 真琴の新しい住所。 そこに、真琴の生活がある。 自分の知らない部屋。 自分の知らない窓。 自分の知らない食卓。 悠斗はその住所を見つめて、胸の奥に鈍い痛みを感じた。 でも、画面を開いて何かを送ることはしなかった。 ありがとうは、昨日送った。 それで終わっている。◇ 夕飯は、冷凍していたご飯と味噌汁、焼いた鶏肉だった。 鶏肉は少し固くなった。 味噌汁は、前より少しまともになった気がする。 豆腐とわかめ。 味噌の量も、ようやく分かってきた。 悠斗は一人で食卓に座った。 向かいの席には何も置かないようにしている。 以前はそこに、真琴の席の気配を勝手に残していた。 半券を置きかけたこともある。 でも今は、できるだけ置かない。 そこを真琴の不在の飾りにしないために。 食べながら、スマホが震えた。 高瀬からだった。『味噌汁作った?』 写真つきのメッセージ。 高
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少